今日は、実の母の傘寿(80歳の誕生日)だ。
後付けで「傘寿記念旅行」 台湾故宮博物院前
普段は家族のことには触れない約束だが、今日くらいは許されよう。
3人も娘がいるというのに、今は広い実家(元下宿屋+増築)に1人で暮らしている。
小学校の教員をしていた母はずっと忙しく、子どもの頃は「(忙しいから)学校の先生には絶対なりたくない」と思っていた。
仕事と育児以外に、国語の研究会にも複数参加し、現在に至るまで続けている研究者でもある。
当時、女子校から4年制の国立大学に行くだけでも非常に珍しいことだった。
世が世なら大学院に進んで大学の先生になるような人材だったのではないか。
母の最大の功績は、育児を実家の両親、義父母にほぼ頼ることなく、近所で私たち3人姉妹を預かってくれるおばあちゃんを見つけてきたことだろう。
このお宅がなければ、下の子を産むことも、母が仕事を続けることも確実に無理だった。
それなりのお礼も払ってきたようだし、洗濯機、冷蔵庫、炊飯器等、買えるサービスにはお金を費やしてきたはずだ。
当時も「子どもは3歳までは親の手で」という3歳神話はあったと聞くし、家電製品は手抜きと言われるようなこともあったと思う。
それでも、そこを割り切ってやるあたりに、職業婦人としての覚悟があったのだ。
現地市民と思われ、選挙の出口調査で意見を求められる
(台湾で母は何度も「エクスキューズ・ミー」と何かを尋ねられていた。私は一度も声をかけられなかったのに)
実際、私に1歳から3歳までの記憶などない。
寂しいとすれば、物心ついた4歳以上のことだろう。
今とは違い、公務員の産休は短かった。
ベビーカーも、紙オムツも、電子レンジも、コンビニもない時代に、子どもを3人も産んで育てながら、働くというのは並大抵のことではなかっただろう。
…と今なら考えられる。
幼稚園や小学校の私はなかなかそう思えなかったが、小学校高学年にもなれば、専業主婦より仕事を持つお母さんのほうが何倍もカッコイイと思えるようになった。
お金を稼いでくる能力のある女性なんだから。
原寸大の渋沢栄一先生と同じくらいの小柄
日々の食事やお弁当はお世辞にもおいしい、かわいいとは言えなかった。
それでも、休日にはホットケーキを焼き、シャービックを作り、ばら寿司を作り、グラタンや茶碗蒸しなどまで作ることもあった。
毎年、白菜を漬けてもいたね。
祭りには娘たちに着物や浴衣を着せ、ひな飾りにクリスマスツリー。
誕生日やクリスマスには、それなりのお祝い料理も頑張っていた。
レース編みをやり、娘3人には歯の矯正を受けさせていた。
花見にスキー、家族旅行も行けば、おせち、法事などにも精を出していたなあ。
おっと忘れちゃいけない、長年にわたる義母の世話に、晩年入退院を繰り返していた夫(私の父)の世話。
小さな体でなぜそんな芸当ができていたのだろうか。
便利な今の時代でも、「母と同じことをやってみろ」と言われたら、私は即刻「無理です」と答えるに違いない。
一度にいくつもの用件をこなす「マルチタスク」。
そんな言葉もない時代から実践してきたスーパーウーマンだ。
母に比べたら、私など何の苦労もしてないに等しい。
現在も私以上に忙しくしているというから驚く。
やるべき仕事があることが母の生きがいらしい。
祖母(母の母)は90代前半まで生きたので、まずそこを目指して長生きしてもらいたい。
喜寿記念で78歳の時に撮った家族の笑顔写真
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