いつか書き残しておきたいと思ってきたが、50何回目かの母の日の今日がその”いつか”だ。
クリスマスツリーも毎年出していたな 母31歳ぐらいの冬
妹たちは目の前でやってもらっていても、”してくれない”と言いがちだし、してもらった端から忘れていく。
年長の私が覚えていることを残しておかなければ。
まず、母のことは小学校くらいまではおかあちゃんと呼んでいた。
その母は80代にしてはとても珍しく、四年制の国立大学を出て、フルタイムの仕事に就いた。
小学校の先生だ。
今も昔も小学校の担任の先生は激務なことはよく知られている。
さらに、自分の研究を続けたくて、校外の研究会に複数属していた。
(その研究会は継続しており60年を超える)
(父がアルバムにそう書いていた)
という前提があっての話だが、働きながら子どもを3人生んで育てた。
学校の授業だけでも大変だが、行事があり、問題児や問題保護者もいたことだろう。
それだけでも気が遠くなりそうだ。
子育ての始めに、第一子の私の出産時に、職場の近所に預かって育ててくれる、乳母のような、今でいう保育ママのような人を自力で探してきた。
(その後、3人ともその家でお世話になる)
写真を見る限り、お宮参り、七五三、ひな祭り、神社の祭り、クリスマス、誕生日と、季節ごとに、おべべを着せて、ごちそうを作っている。
着物の調達だけでも大変だっただろうに、ちらし寿司や巻き寿司も作っていたね。お正月にはおせちも。
三女が3歳として私は9歳なので着物がつんつるてん
写真を見ると、夏にはビニールプールを出して水浴びさせているし、スキーにみかん狩り、芋掘りも、潮干狩りも連れていってもらっている。
大阪万博ほか旅行やキャンプにも連れていってもらったよ。
手の込んだ料理と言えば、茶碗蒸しを作っていたし、日曜はホットプレートでホットケーキやフレンチトースト風のもの、サツマイモなどを焼いていた。
冷蔵庫でシャービックというハウスの氷菓子なども作っていたわ。
※フレンチトースト風のものというのが、学校の給食で余ったコッペパンと牛乳を消費するためのもので、お世辞にもおいしいとは言えなかった。今で言えば完全に賞味期限切れのものばかりだったので。
これは母のお雛様だったものらしい 欠けたパーツ多数
秋には白菜を干して漬けていたし、夏はぬか漬け。
四季折々には花壇に種を植えて、チューリップやパンジー、朝顔などを咲かせていた。
娘3人に歯列矯正を受けさせ、病院の待合室ではレース編みなどやっていた。
くみちゃん、いつも姉のおさがりでゴメン
「仕事をさせてもらうからには、完璧な妻、母でなくては…」と考えていたのだろう。
(寛大な夫の許しを得て外で仕事をさせていただく時代)
仕事ほかデスクワークは朝5時頃に起きて片付けていたようだ。
紙おむつも、電子レンジも、コンビニもない時代にこれだけのことをやろうと思えば、そりゃまあ幼稚園に持たせる弁当も最低限のものになるし、バトンの練習も行事も子どもだけで行ってちょうだいねということになるのは仕方ないよ。
子どもがそこそこ大きくなってから(私が高1以降)は、父方の義母(祖父の後妻さん)と同居するという苦労まで。
電子レンジやコンビニ、宅配、通販、外注サービスなどがある令和の今だとしても、母と同じことをしてみろと言われても、とてもじゃないが無理だ。
昭和ひとケタ生まれは、戦争も経験しているし、広島の人は原爆も経験している。
我慢のレベル、頑張りのレベルが、今の現役世代とはけた違いなのだ。
中でも、私の母のスーパーぶりは群を抜いているのだと思う。
これは大芝の交通公園だね 足がサリーちゃんみたいだわ
乳飲み子含む娘3人を置いてヨーロッパに3週間行ったりしてぶっ飛んだお方だが、母を水で5倍くらいに薄めたのが私なので、DNAにより多少の踏ん張りは受け継がれているのかもしれない。
私があちこちで、スーパーポジティブと言われたりするのは、そんな母を見ていたからかと。
いちいち教育されたわけではないが、いわゆる背中を見て育ったというやつだろう。
そんな母は80代後半でも施設に入ることなく元気に暮らしており、少なくともそのまた母(私の祖母)が亡くなった90代前半まではピンピンな気がするな。
とにかく、好きなこと、やりたいことをして長生きしてもらいたい。
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