昨日から、60年前に病院の産科病棟で取り違えられた男性が、病院を相手取り起こした裁判が話題になっている。裁判所は3,200万円を慰謝料として払う命令を下していた。
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記者会見で男性は「育った家は貧乏だった。60年前に戻してほしい」と言っていた。確かにその気持ちも分からないではないが、この人には二人の兄がおり、兄らは取り違えでも何でもなく貧乏な家庭を受け入れて育つしかなかった。我が子と疑わず貧乏をしながらも女手一つで育ててくださったお母さんも気の毒だ。
相手の家はとても裕福で、小学校から家庭教師をつけてもらって、4人兄弟全員が有名私大に進学し、一部上場企業に勤務しているとか。"本来の家で育てば、僕だって何不自由なく過ごせて、進学や就職ができたはずだ"というのがその人の言い分だ。
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私は大学時代、教育学専攻で、教育社会学のゼミにいた。教育社会学とは、教育によってどんな社会が形成されていくかを見る学問だ。当時は、母親の学歴を高卒、短大卒、大学卒のグループに分類して、幼稚園の子どもの生育を見るアメリカでの研究論文を原書で読む講義が行われていた。
生身の人間でそんな実験をするのか…と考えながら読んでいたが、その後、日本でも東大の学生の親の年収は飛び抜けて高いというデータも出た。
「カエルの子はカエル」とは言っても、それは遺伝やDNAの問題ではなく、教育環境を指すのだろう。労働ではなく、教育を受けさせる余裕があれば、どんな子だってある程度までは伸びるはずだ。
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取り違えのニュースを見ながら、「そうか、学問とは生物学的遺伝で身につくわけではなく、赤の他人でも親の希望通り育てることができるのか…」と考えさせられた。
私だって”もっとお金持ちの家に生まれていれば”とか”親が○○を習わせてくれていれば”と思わないでもなかったが、子ども心にも"そんなことを言っても仕方がない"と考えていた。”大人になったら自由に○○しよう”というのが何においても自分の原動力になってきたように思う。
どうしても○○を習いたければ大人になって自分のお金で習えばいいし、もっと上の学校に行きたければ自分が稼いだお金で行けばいいのだ。
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60歳なんてまだまだ若い。病院から3,200万円を支払われる男性はそのお金で今からでも大学に通うか、金銭面で進学を断念しようしている高校生の基金などに充ててもらいたいものだ。
内戦や紛争、災害等で教育が満足に受けられない子どもたちは発展途上国にたくさんいる。置かれた環境を恨むより、その中でどう頑張っていくかが重要なのよ。
東京マラソンまで、あと87日
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ただいま【3176号】