NHKテレビ画面を撮影
今日は、地球で初の原子爆弾がヒロシマに投下されてから70年の節目の日。
朝日新聞の朝刊・社会面を見たら、撮影場所のすぐ左下側が実家だ。
撮影場所の右上が通った高校。
もっと広いパノラマ写真 実家に近い広島東警察署から撮影
爆心地からこんな近くで生まれ育った私が原爆を身近に感じないわけがない。
思い返せば、新聞広告の仕事でも1日3回は平和公園の中を往復していた。
8・6が近づくにつれ、夾竹桃の花の紅、世界各国から集まる人々の帽子やゼッケンの彩、色彩であの日が思い出される。
周囲は被爆者だらけだが、意外にも、祖父母や父が私に「ピカ(ドン)」の話をすることはなかった。
戦争の悲惨さも話すことはなかった。
相生橋のすぐそば(画面右)に元の市民球場
ただ、一緒にお風呂に入って、おばあちゃんの胸のケロイドを目にしてきたことは忘れない。
私が主に聞いてきたのは、祖父母や父の体験を聞いた母からの話だ。
平和宣言の市長は喪服
その母が70年生きてくれたからこそ語り部の役割を果たしてくれた。
孫である甥・姪も話を聞いているはずだ。
そして、広島市の学校に通っていたなら、幼稚園から大学まで平和教育を必ず受ける。
教員免許を取得するならさらに、平和教育ができるようになるための講義も受ける。
そこでさまざまな立場の方の体験談を聞いてきたのだ。
今年初めて日よけのテントが設営された
今年、被爆者の平均年齢が80歳を超えたというが、小学生で被爆して70年生き抜いてきた方が80歳前後ということだ。
確か叔母(父の妹)が戦後からちょうど60年生きて亡くなった…はずだから、叔母の死は10年前のことになるのか。
多くの方が、戦後70年生き抜いてくださってきたことを感謝したい。
ただし、母を含め、焼け野原のヒロシマを知っている人が全員亡くなったらどうしよう?という不安はいつも持っている。
山口なまりが出た安倍首相に少し人間味を感じた
東京のマスメディアは特攻隊に焦点を当てて美談にすることが多いが、
私は絶対にヒロシマ・ナガサキの犠牲者を忘れてほしくない。
十数万人の一般市民の死を風化させてなるものか。
また聞きの私でも、後世に何かを伝えていくことが使命のはずだ。
そのためには、私が健康で長生きすることも責務の一つだ。
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